「ありがとう、青学。」特設ページ
「ありがとう、青学。」スペシャルムービー
青山学院記念館での主な記録
“ホームアリーナ青学”はこうして生まれた──Bリーグ創成期を支えた人物の舞台裏
サンロッカーズ渋谷にとって、ひとつの“ホーム”に区切りの時が訪れます。
2016年のBリーグ開幕からともに歩んできた青山学院記念館を、私たちは今シーズンで離れます。
勝利に沸いた夜の熱狂も、悔しさを胸に刻んだ帰り道も。積み重ねてきたすべての時間が、この場所には確かに息づいています。
だからこそ、この体育館を離れる今、私たちは一度立ち止まり、原点と向き合いたいと考えました。
なぜ青学がホームだったのか。
どんな想いで、この場所に根を下ろしたのか。
当時を知る関係者へのインタビューをもとに、ノンフィクションライターがひとつの物語として紡ぎます。
「“ホームアリーナ青学”はこうして生まれた──Bリーグ創成期を支えた人物の舞台裏」(前編・後編)。
あわせて、写真や記録とともに、この10年を振り返ります。
ここで生まれた景色を、記憶を、もう一度。
青学で過ごした時間を、ぜひ一緒に辿ってください。
大学の体育館をプロチームがホームアリーナとして使用する。渋谷区の後押しも受けながらのこの夢プランは、ウルトラCどころか超難易度の高い夢プロジェクトだった。
あれから10年。あのころ青山学院に通い始めた大学生は卒業して、バリバリ働いているはず。手作り感満載のスタート、その住み心地の良さからまさに「わが家」となった青山学院記念館はすべてが特別だった。
おしゃれな青山通りからたった数歩。渋谷駅からも、表参道駅からもすぐ。何なら、超人気ドーナツ店に立ち寄ることもできる(空いていればの話だが)。
門を抜け、階段を駆けのぼると、そこからは非日常。本気、超一流の戦いの場に一瞬で入り込むことができる。この何ともいえない密集、密着感。手を伸ばせば届くところにあの選手がいる。激しいボールの奪い合い。大男たちが体をぶつけリングに向かう、勝利を目指して。
はやりのアリーナのようなきらびやかな照明はない。明るさは足りている。足りてはいるが、光量がどこか優しいのは、現代のLEDではなく水銀灯だから。水銀灯はスイッチオンから明るくなるまでに時間がかかる。つまり、演出の切り札である暗転は大の苦手。試合中に真っ暗にするような演出ができないのは、ここ青山学院記念館ならでは。魅力の1つだと伝えておきたくなる。
だからこそ個性を生かしてクラブもチームも、何よりファンもひとつになってチームを盛り上げてきた。
どこよりもホーム、いやわが家感が強かった理由は、この手の届く一体感、そして誰もが青春時代を過ごした「体育館」のにおいだったような気もする。
なぜサンロッカーズが、青山学院との縁を持つに至ったのか―。青山学院記念館から離れる節目に3人のキーパーソンを訪ねた。
歴史の証人ともいえる3人は自ら資料を探し出し、メモを作り、取材時間をたっぷり用意しサンロッカーズ、そして渋谷と青山学院への愛を示した―。スマートだけれども熱い、そんなサンロッカーズファミリーの振る舞いだった。
ここにサンロッカーズと青山学院記念館が結んだ、信じ難い物語を記す。

ホームアリーナ・青山学院記念館

「青山学院大学」の文字の横に装飾が施されている
当時、サンロッカーズは困っていた。Bリーグのスタートと参入への具体的な条件が突きつけられた2015年。困ったというより、もはや切羽詰まっていた。
2016年秋に、日本のプロバスケットボール「Bリーグ」が華々しくスタートする。日本バスケットボールの歴史の転換点。まさにそんなタイミングだった。
日立時代から長い歴史を誇るサンロッカーズは2015年1月に天皇杯全日本総合選手権を初制覇。当然、最上位のB1でスタートすべく動いていた。
しかし、険しいハードルをクリアできずにいた。本拠地問題だった。サッカーのJリーグの生みの親、バスケットボール界をも強烈なカリスマ性でまとめた初代チェアマンの川淵三郎は「アリーナ条件」を掲げ、例外なくこれを求めた。
クラブがプロとしてお客さまを迎えるための箱は、体育館ではなく「アリーナ」。具体的に収容人数5000人などを求めていた。
当時のサンロッカーズにはあてがなかった。2015年1月にともに女子の全日本選手権(皇后杯)を制したのが、ENEOSサンフラワーズ(当時はJX―ENEOSサンフラワーズ)。同じ千葉・柏を拠点にしていた。まず、筋として男女の日本一チームがある柏市に5000人規模のアリーナ構想を尋ねた。
2016年、Bリーグがスタートした際のクラブの代表取締役社長、岡博章(前日立ソリューションズ・クリエイト常務執行役員)が当時を振り返る。
「柏の体育館(柏市中央体育館)を新しく建て替えたりする計画、そういうお考えはありませんか?と柏市に話を聞いてもらったんです。柏市としては様々な面から厳しい、そういう計画はないというお答えでした。ああ、柏は無理だなとなりました」
同じ黄色、太陽を掲げるJリーグの柏レイソルもいる、なじみのある柏でBリーグに参戦する道はすぐに途絶えた。
そんな中、当時の親会社の本社サイドから、東京を本拠地にしてはどうか?との話が出た。岡によれば「日立グループや多くのお客様、いろんなお付き合いがある方々が東京にいらっしゃる。リソースが一番あるのは、東京なので、会社からも『東京でなんとかしてほしい』という話もありました」。

当時クラブの代表取締役社長・岡博章(前日立ソリューションズ・クリエイト常務執行役員)
関係者を探る中で、渋谷区が受け入れに前向きな姿勢を示してくれた。渋谷区にある、JR千駄ケ谷駅の目の前にある東京体育館は1万人を収容できる。目星をつけ動きだした。
しかし、思うようにいかない。東京体育館はその利便性も含めスポーツ、エンタメ含め、多くのイベントでフル稼働中。当時の稼働率が97~98%とパンパンだった。渋谷区にあるが事実上、東京都の持ち物。民間の1クラブが本拠地として優先的に利用するには、かなりハードルが高い。水面下の交渉もうまくいかなかった。
そうこうする間にアリーナの登録期限は迫ってくる。辣腕、剛腕の川淵からは「地方のいろんな都市でスポーツによる町おこしに積極的で、受け入れたいという地域がある」と直接、地方へのホーム移転を勧められたこともあった。
だが、当時の親会社からは「都内で」との命を受けており、動くに動けない。ライバルチームはどんどんとホームアリーナが決まっていく。最悪のシナリオもよぎった。
収容人数5000人をあきらめ、Bリーグ、B1で戦うことを見送る―。そうなれば、日立からもこれまで通りの支援は得られないだろう。そうなってしまえば、いずれチームの歴史に終止符が打たれるかもしれない。切羽詰まった状況で、ある1枚のイメージ図が運命を切り開くことになる。
チーム運営を取り仕切り、最前線でBリーグの基準を満たすアリーナ探しに奔走していたのが大江田孝幸。現在もサンロッカーズに籍を置き、Bリーグ創設時にはゼネラルマネージャーを務めたクラブの生き字引のような存在だ。大江田の頭の中には、いまでもその1枚のイメージ図がはっきりと焼きついている。
アリーナを探し続け、すべての可能性をしらみつぶしに確認していた。そんな中、かつて知り合ったある人物から「ちょっと話そうか」と誘われた。その場で、1枚のイメージ図を示された。
「アリーナスポーツ協議会理事(※現在は「一般社団法人スポーツと都市協議会」に名称変更)をやってらっしゃった当時電通の花内誠さんから、青山学院記念館、体育館のフロアにパイプ椅子をばーっと並べたイメージ図を見せてもらいました。『2階席と合わせたら5000席になるよ』と。そうなんですか!! って。まったく想像さえしていなかった話でした」
体育館にイスが並びコートを取り囲んでいる。施設内の5000人という収容の条件をクリアしており、何より最も望んでいた渋谷区、それも山手線内。渋谷からも表参道からも徒歩圏内にある、青山学院記念館だという。
青山学院は当然、知っていた。あの「アオガク」だ。知らない人の方が少ないだろう。おしゃれな青学。確かに渋谷にある。だが、そこにプロバスケットボールの興行ができる体育館があるなんて―。
半信半疑だったが、アリーナの専門家の言葉を信じるしかなかった。ほぼ万策尽きていた。信じるというより、すがるといった方が正しいだろうか。
本当にそんな夢みたいな話が現実になるのだろうか―。大江田も、報告を受けた上司の岡も、すぐに現実のプランであるとは信じられなかった。
ただ、アリーナ候補の施設を探して歩き回り、途方に暮れていた大江田には、一筋の光が見えた。

当時アリーナ探しに奔走した大江田孝幸(現SR渋谷エリアリレーション部門ディレクター)
青山学院記念館に可能性がある。いけるかもしれない―。極めて難易度の高い夢プロジェクトが極秘裏に動きだした。
Bリーグから求められるアリーナの要件はとにかく細かかった。トイレの数から控室、お客さまには見えないところまで、事細かな基準が設けられていた。
青山学院記念館は1964年の東京オリンピックの年からという長い歴史がある建造物。大学の体育の授業で使われる体育館であり、学校法人である青山学院の入学式や卒業式、クリスマスの礼拝など重要な公式行事の会場としての歴史があった。
商業施設ではない。大切に守られ、歴史を刻んできた分、最新の施設ではなく設備もそこまでのものではなかった。
交渉の中で、一番の問題点は縁もゆかりもないBリーグのクラブに貸し出すことによって、学生の本分である学業、学生活動、つまり体育の授業や部活動に支障が出てしまう懸念。「けしからん」というある意味当然の意見が根強かった。
青山学院には、外部のプロスポーツクラブに貸し出した前例はなかった。何より、スーパーブランドの学校法人は経営的にも盤石で使用料で儲けようという発想がない。言葉は悪いが、お金で解決できる問題ではなかった。
先進的な取り組みを次々と進め、青山学院大の発展に大きく貢献した当時の学長、75歳の現在も弁護士として最前線で活躍する三木義一(現青山学院大名誉教授)はこう言う。
「大学ですからね、はい。学生用施設なんですよ。サンロッカーズさんに使っていただくとなっても、あくまでも学生の施設であるという用途、前提が崩れては困るわけです」
Bリーグが始まれば、試合の多い週末、土日はそれまで体育館を自由に使っていた強豪のバレーボール部を中心とした各部が利用できなくなる。大江田は渋谷区のサポートにも感謝しつつ、こう説明した。
「各部の土日の練習はどうするんだ?というなかで、渋谷区に協力をしてもらい、渋谷区の持っているスポーツセンターだったり、体育館でも部活動の練習ができるよう協力していただいた」
そうはいっても、追い出される形になる各部はたまったものではない。
大江田の耳には厳しい意見も届いた。「ある部から、特に強い部からは『なんで私たちがどかなきゃいけないの?』という声も聞こえてきました。当然ですよね。当時、プロの公式戦用のゴール、リングを設置するためには床に穴を開けなきゃいけなかったんです、固定するために。その穴の位置がちょうどバレー部の練習するコートにあった。レシーブする時に怪我するんじゃないか?というリスクにも答えなくてはならないわけです」
問題は小さな穴のケアからすべて、数え切れないほどあった。空調、冷暖房がなかったから2つ返事で調達すると約束した。パイプ椅子ではなく移動式の観覧席、ゴールとリング、更衣室の整備まで。とにかく、ありとあらゆる要求にできる限り向き合った。
できますか?と問われれば、ほぼほぼ「はい」と答えた。
アリーナでの試合開催のためであり、それはそのまま青山学院記念館が歴史あるたたずまいのまま内部を学生のために使いやすくリニューアルすることにもつながった。
このあたりが大きかった。ちなみに、空調は当然日立から。得意分野がいくつもあったことも大きかった。
最後は産学官の連携という大きな話で決着をみた。
青山学院側は、先進的な大学学長の三木が渋谷区との連係を密にし、学外からどんどん新しい交流で、たくさんのものを得ようとしていた。
法律家でルールには誰よりも詳しい上、どこまでも情熱的な三木が大学学長であったことも大きかった。
「研究、教育ももちろん大事ですが、地域との接点、それから私立大学として社会へ貢献していくというこの役割はとても大事だと、私は思っていましたから。そこにサンロッカーズさんが苦労されていると聞いたわけです。私立大学はもっと地域に出て、地域に溶け込んでいかないと将来的に危ないのではないか?今後のことも考えて、そう思っていました。私が学長の時には駅伝、おかげさまで優勝できて渋谷でもパレードをやったわけです。ところがあまりにも人出がすごすぎて困っちゃって、1回で終わっちゃいました。」
三木はある意味クラブにとって素晴らしい〝助っ人〟だった。縛られない思想の持ち主だった。
ついにその日が来た。
当時の親会社、日立製作所が以下の発表資料を出したのが、2016年5月31日。大江田が、アリーナのプロ、電通に在籍し、スポーツアリーナのスペシャリストだった花内から1枚のイメージ図を示されてから1年弱ですべてをやり遂げた。 そこにはこう書いてあった。 「株式会社日立製作所は、日立のシンボルスポーツの一つであるバスケットボールチーム、日立サンロッカーズ東京・渋谷(以下サンロッカーズ)が、2016―17シーズンから参戦するプロフェッショナル・バスケットボールリーグ(Bリーグ)において青山学院記念館(大学体育館)をホームアリーナとして使用することで合意に達しました。各種スポーツのトップリーグにおいて、大学の体育館をホームアリーナとして使用する試みは初めてとなります。また、本提携には渋谷区(区長:長谷部健)も行政として参画し、チーム名に「渋谷」の名称を冠することで、地域にスポーツエンターテイメントとしてのバスケットボールを普及、定着させていきます。(中略)今後、行政(渋谷区)、大学(青山学院)と連携し、バスケットボールを通じて社会貢献、地域振興を図っていきます」
青山通りに面したあのおしゃれなイメージの一流大学の体育館を、サンロッカーズがホームアリーナにする―。だれ1人として、いや、花内を除いて想像さえしなかったことが現実になった。だからこそ今がある。
そこから開幕までの準備の慌ただしさは、まさに目が回るほどだった。1度もプロのバスケットボールの公式戦を開催したことない会場、いや体育館。クラブのトップに就任した岡はまさかの事態に備え、他の施設と同じように消防署からの興行開催許可を取り付けなくてはならなかった。
「最初の試合の直前まで、渋谷の消防局からの防災の認定がおりていなかった。チケットも売って、お客さんにも来ていただけることになっていましたが、まだだったんです。許可は試合のその日の午前中におりました(苦笑い)」
まさに綱渡りだった。リングに何度もはじかれながら、最後はねじ込んでゴールを決めた―。そんな感じだろうか。
大学の体育館でプロのバスケットボールの興行を開催する。リーグ側もずっと「?」だったようだ。5000人の基準を本当にクリアできているのかと。
初戦。岡の目に飛び込んできたのは、リーグから派遣された人物が座席の数をしっかり数えていたこと。「日本野鳥の会ですか?バードウォッチャーみたいな感じの双眼鏡を構えて、こうやって数を数えてるんですから。ほんとに(笑い)。そんな感じでしたから」
翌シーズンからサンロッカーズ渋谷は「東京・渋谷」というクラブ名から東京を外し、真の渋谷のクラブになった。それも、青山学院記念館があったからこそ。
この10年を大江田はこう言う。「どこのクラブもやってない、大学の体育館での興行というチャレンジをやってこられた。その後、あそこで大相撲の巡業も日本代表戦もやりましたよね、うん。扉を開けたじゃないですけどね。そして、渋谷イコール若者、最先端、カルチャーっていう、都市ブランドっていうものを我々としては青学さん、渋谷区さんと一緒に築いてこられたのかなと思っています。勝利とかタイトルというものとは別に、大都市でのクラブとしての存在感っていうものは、少しは出せたのかなっていう手ごたえはあります」
10年ひと昔というが、サンロッカーズは今回もBリーグプレミアの新アリーナ基準を満たすため、同じような苦労をし、またも共同使用という想定外の解決法で、進むべき道を見いだした。
残念ながら、青山学院記念館を離れざるを得ない。
岡はいう。「(新アリーナ探しについては)時間の制約もあり、おそらく、だから致し方がないんだろうなと思います。このチームをBプレミアで維持しながら東京でやっていくという選択肢の中で考えた時には。10年前も同じような話をしていますから、似たような状況ですね。結局そういうことかなと思うんですけど」
青山学院記念館を晴れて、卒業する運びとなった。暗い話ばかりではない。たった10年かもしれないが、奇跡的な出会いからの濃密な期間で2人、いや、家族の仲は深まった。
エンターテイナーで、とにかく話しのうまい三木が旅立ちの言葉を贈ってくれた。
「そうですか、あれですね。4年間で巣立ったり、大学院まで行く学生はいますけど、10年ですか。ちょっと長い間在籍して巣立っていく卒業生みたいなイメージですね、そうですね、うんうん。大学院までフルに使ってそれをダブルでいた学生だ。学部4年、大学院2年。ドクター3年だから、フルにドクターまで出て、ちょっと論文書くのに時間かかっちゃったんですね。でも、渋谷で優勝できなかったんで論文の点数は微妙かな?ってところ。次は、うん、ちゃんと優勝して論文提出!サンロッカーズは長いこと青学にいてくれましたが、まだ学位は取得してないんです。学位論文をやっぱりちゃんと、早くね。学位論文はね、あんまり時間制限はない。ないとはいっても、のんびりしてはいけない。だから、この数年のうちにちゃんと論文を書いてそれで青学に提出してください」
優勝したら、1日だけでも渋谷に戻って、これまでの感謝の気持ちを伝えたい。きっと、三木と青山学院の人々が笑顔で卒業証書を渡してくれるはず―。その時まで、その後も、サンロッカーズと渋谷、青山学院の関係は続いていくに違いない。




































