五十嵐圭が振り返る、サンロッカーズで築いた“人としての土台”

五十嵐圭選手
新潟県上越市出身。180cm・73kg / PG。北陸高校、中央大学を経て2003年に社員選手としてサンロッカーズに入団。2006年にプロ転向し、世界選手権にも出場。スピードと判断力に優れ、日本代表としても活躍。2024年からは新潟アルビレックスBBで4シーズンぶりにプレーし、地元の期待を背負う中心選手としてチームを牽引している。
2003年、社員選手としてサンロッカーズに入団した五十嵐圭選手。社業とバスケットボールを両立しながら、代表選出やメディア出演など、注目を集める存在へと成長していった。
そして今、45歳となった五十嵐選手は、新潟アルビレックスBBで選手としてプレーを続けながら、社長補佐・強化部長補佐という新たな役職を兼任。現場と経営の両面からチームを支える立場へと歩みを進めている。今回はそんな五十嵐選手にサンロッカーズ時代の学びと思い出を伺った。
サンロッカーズに入団した経緯を教えてください。
五十嵐選手:
大学4年生に上がるくらいのタイミングで、当時大学でヘッドコーチをされていた恩師の桜井(康彦)さんと、サンロッカーズのヘッドコーチだった倉石(平)さんが知り合いだったという縁もあって、オファーをいただいたんです。当時のサンロッカーズは実業団のチームだったので、社員選手、契約選手、プロ選手という3つの選択肢がありました。自分としてはプロとしてやりたいという思いもあったんですが、桜井さんから「セカンドキャリアを考えたら、1年でも社会人としての経験をしておいた方が、必ず自分のためになる」とアドバイスをいただいて、最初は社員選手として入団しました。
社員選手ということは、社業にも就いていらしたんですね。
五十嵐選手:
はい。バスケットボール部のOBやスポーツ関係の社員が多くて、理解があるということもあり、関連会社の日立産機システムに入社して、営業をやりました。最初は何もわからないので、主任さんについてまわって、少しずつ仕事を覚えていきましたね。満員電車に乗って会社へ行って、午前中は社業。一旦寮に帰って、近くのジムでトレーニングをしてから、また電車で移動して夜7時ごろからチーム練習という生活でしたね。大変でしたけど、社会人を経験して本当に良かったと思っています。社会人としてのマナーなど、勉強になったことがたくさんありました。

選手としては1年目から中心選手として活躍されました。
五十嵐選手:
当時、先輩方もみなさんすごく優しかったんです。「とにかく思い切ってプレーしろ」って言っていただいていたので、自分ができることを精一杯やろうと思っていました。サンロッカーズに入団する前に、今でいうU24ですかね、代表チームに選んでいただいて、ユニバーシアードに出場したんです。その後、A代表にケガ人が出て、繰り上げみたいな形で抜擢されたんですよ。アテネ五輪の予選になっていたFIBAアジアバスケットボール選手権に出場できたことは大きかったですね。高いレベルのバスケットボールを経験できたことで、プレーする責任や重みを意識するようになり、自分の目標はより高いものになりましたし、また代表に呼んでもらえるように、結果を残さないといけないという自覚も生まれました。そのおかげでサンロッカーズでも臆することなくプレーできた気はします。

五十嵐選手のサンロッカーズ時代といえば、世間が最も注目するバスケットボール選手だったと思うのですが、そういう周囲の目はどのように捉えていましたか?
五十嵐選手:
加入4年目の2006年にプロ選手になったんですが、そのタイミングで世界選手権が日本で開催されたんです。それでバスケットボールを取り巻く環境が大きく変わりました。開催国ということで、メディアで大きく取り上げてもらえましたし、自分自身、バラエティー番組や報道番組にも出演する機会を多くいただきました。世界選手権はグループリーグで敗退してしまい、結果は出せませんでしたが、バスケットボールがなかなか認知されない時代だったので、大きなきっかけになりました。自分も一選手ではありますけど、そういったメディアに出ていくことで、バスケットボールに興味を持ってもらえればと思って、自分のできることは何でもやっていこうと思っていました。もちろん賛否両論ありましたけど、「テレビに出ているからダメなんだ、そんなことしているからダメなんだ」と言われないように、バスケットボールを一番の基盤に置いて、コートの中では必ず結果を残す。そんな気持ちでいましたね。
サンロッカーズ時代のことで印象に残っているエピソードはありますか?
五十嵐選手:
本当に先輩方や指導者に恵まれたというのが一番です。入団するきっかけとなった倉石ヘッドコーチは、自分よりも力のある先輩方もいた中で、自分を起用してくれました。そのおかげで代表にもつながったと思いますし、もちろん今の自分にもつながっています。先輩方も自分に対していろいろな思いを抱えていたと思うんですけど、何も言わずに後押ししてくれました。今でもつながりのある方が多くて、本当に人に恵まれたなと思っています。
今回、菅裕一さん、佐藤稔浩さん、竹内譲次さんにもお話をうかがっているのですが、3人の印象は?
五十嵐選手:
菅さんは寮が一緒だったので、いつも菅さんに車で体育館まで連れて行ってもらって、試合が終われば食事に連れて行ってもらって。常に一緒にいるような存在でした。バスケットボールのこともプライベートのこともたくさん相談しましたね。ルーキー時代に一番お世話になった、頼りになる先輩です。佐藤さんは、同じポイントガードとして僕にはないプレースタイルや考え方を持っていて、そこからすごくたくさんのことを学びました。自分がダメでも稔さんがいるから安心というか、心強い先輩でした。おふたりの影響力というのは、僕にとってすごく大きかったですね。譲次は、彼がサンロッカーズに入ってくれたおかげでチームの成績が上向いていったんですよね。自分が抜けた後はエースとしてチームをずっと引っ張っていってくれて、本当に頼りになる選手でした。彼のおかげでリーグ戦の準優勝と天皇杯の準優勝までいけたと思うので、それもあってすごく印象に残っている存在です。

五十嵐さんにとって、サンロッカーズはどういうチームでしたか?
五十嵐選手:
大学を卒業して最初に所属したチームで、今までの自分のキャリアの中でも、リーグ戦準優勝、天皇杯準優勝というのが最高成績でもあるんです。そこを残せたという意味でも、やはりサンロッカーズは思い出深いですね。それと、人としての基礎を作ってくれたのがサンロッカーズ。バスケットボール選手としての基礎はもちろん、社会人としての基礎もそうですね。在籍していたのは6年ですけど、自分を一番成長させてくれたチームだと思います。