サンロッカーズを支えた二人の背中

右:菅裕一さん
187cm・ガード
2000年~2010年の10年間サンロッカーズに在籍。初代「Mr.サンロッカーズ」の愛称で多くのファンに慕われ、キャプテンとして2008年の天皇杯/JBL2008-09シーズン準優勝に貢献。個人としても年間ベスト5、オールジャパン大会ベスト5、日本代表に選出されるなど数々の功績を残す。背番号「11」は永久欠番に指定された。
左:佐藤稔浩さん
176cm・ガード
2002年~2012年の10年間サンロッカーズに在籍。卓越したバスケットボールセンスと安定感のあるゲームメイクで、JBL2008-09シーズンの準優勝、並びに2年連続の天皇杯準優勝に貢献。またスリーポイント成功率部門1回、スティール部門2回といった個人タイトルを獲得。背番号「20」は永久欠番に指定された。
サンロッカーズの歴史に名を刻む2人のレジェンド、菅裕一さんと佐藤稔浩さん。彼らの背番号「11」と「20」は、今もチームの永久欠番として輝き続けている。今回は、現役時代の思い出から、永久欠番に選ばれたときの気持ちまで、当時を振り返ってもらった。
現役選手時代(2000年頃)のサンロッカーズについて

菅さん:
僕が入った頃は社員選手が多く仕事がメインでしたが、徐々にチームが強くなってからは他のチームと同じようにバスケメインになっていきました。他のチームも社員選手はいましたが、仕事で練習に遅れるなんて聞いたことなかったですからね(笑)4-5年目からは練習に集中できるような環境も整い、自然と練習量も増えていきました。
佐藤さん:
会社の方針が変わったりでバスケが盛り上がっていくのを実感してました。昔は練習場所を転々としたり、地方で試合をすることも多く観客も30人など少ない時期もありましたね(笑)
菅さん:
年齢を重ねてからは(佐藤と)よく一緒にいましたね。(笑)
ベテランとなってからは同世代が少なくなってきたので。
佐藤さん:
試合や練習中はこうやってほしいなど言葉を交わすよりもプレーで意思疎通みたいな感じでやっていたのでチームとしても上下関係は一切なく仲良くフラットな雰囲気でした。
菅さん:
チームの雰囲気は昔から変わってないですが、プレーオフに出られるくらい強くなってくると選手でのミーティングも増えていきました。
佐藤さん:
あまり覚えていないのですが、チームとして劇的に変わった瞬間はあったと思います。そこからチームとしても強くなった覚えがあります。メンバーややり方が変わったというより、結果がついてきてチーム全体の雰囲気はよくなっていきましたね。
2008-09シーズンの JBL準優勝を振り返っていかがですか?
菅さん:
私が入団した当時は、日立本社と日立大阪のチームが統合してサンロッカーズとなったときで、チームメンバーが若く5年目までの選手のみでベテラン選手がいませんでした。若さの勢いだけで、ずっとプレーオフには進出することができませんでしたが、五十嵐(圭)選手や、竹内(譲次)選手など、優れた選手やコーチ、スタッフが集まってきたことで、徐々に強くなってきました。初めてファイナルの舞台に立つことができたときは、多くのファンや職場の方に応援してもらうことができてとても嬉しかったです。
佐藤さん:
五十嵐選手は1年目から勢いがあってストイックで真面目で、チームに入って努力してどんどん上手くなっていきましたね。その後、竹内選手が入ったことでロスターのバランスが良くなり、オフェンスの起点にもなっていました。
菅さん:
以前までは自分で点数を取りにいくスタイルでしたが、パスやスクリーン、スペースを作る動きをしたり、シュートの確率が高い選択をするようになったことで、勝つチャンスが広がっていったように感じます。
竹内選手が入ってきてすごかったのはありますが、当時はチームの予算が他チームに比べて限られている中で、よく準優勝できたなと思います。個々の能力では負けていたので、チーム力で戦っていました。
佐藤さん:
外国人選手が試合中のプレーでへこんでいるときは竹内選手がホテルに戻ってから慰めるために一緒にテレビゲームをしてたりもしてました(笑)。そうすると次の日いいプレーをするんです。
準優勝前はなかなか勝てない状況も続いて、当時は負け癖みたいなのがついていたのですが、準優勝の時は勝つんじゃないかなというイメージが強かったですね。みんなで同じ方向を向いていたという感覚もありました。

キャプテンやリーダーとしてお二人が大事にされていたことなどありましたか?
菅さん:
ここだけの話、最初キャプテンはあまりなりたくなかったのですが(笑)、当時ヘッドコーチの小野(秀二)さんからみんなを引っ張っていくとかはしなくていいから、チームの状況をよく見ていて欲しいと言われていたんです。若手に声かけたり、言葉でチームをまとめるということは意識していましたね。
佐藤さん:
元々声かけやアドバイスしてくださってたのですが、側で見ていてもメンバーを気遣ってくれているなというのはとても感じていました。
菅さん:
チームに入った頃から年代が近いメンバーが多く、雰囲気の良さは入った頃からありました。未だに現役で一緒だったメンバーとは、いまでも定期的に会って飲んだりしています。
佐藤さん:
私は言葉で伝えることはほぼなかったのですが、柏倉(秀徳)選手に「お前が一番上なんだぞ、チームをまとめてくれ」と話した覚えがありますね。
菅さん:
そういった意味では私が引退するときは、トシ(佐藤 稔浩)とテツ(山田 哲也)、ヤマ(上山 博之)にはよろしくなと話をしましたね。(笑)

永久欠番が決まった時はいかがでしたか?
菅さん:
他のチームにも僕のような成績を残している選手はいるので正直にお話ししますと最初は断りました。そこからの流れはあまり覚えていないですけど、チームからそのように言ってもらえるのは光栄なことですので、最終的には受けました。
佐藤さん:
目立つことが苦手だったので私も最初は断りました(笑)。ですが話をくださった日立社員の方と子どもが大きくなった時に“お父さんすごいね”って思ってくれるんじゃない?と言われ、その一言が決め手になりました。ちょうど今、子どもも大きくなりバスケをやっていて、(永久欠番を)喜んでくれているので、よかったなと今になって思いますね。
最後に、お二人にとってサンロッカーズはどのような存在ですか?
菅さん:
一言で表すなら“感謝”ですね。大学までバスケを続けて、トップリーグのチームに誘ってもらえてプレーすることができ、たくさんの方に応援もしてもらい、素晴らしい仲間やコーチ、スタッフにも出会えることができました。最近は子どものバスケで忙しいので試合会場に行って応援することはできていないですが、試合結果はチェックしたり、動画を見ています。すごくいい選手が揃っていて力はあると思うので、噛み合えば上昇していきそうだなと感じます。今回90周年を迎えて、ずっと応援するチームが続いているのが本当に嬉しいです。 今後もOBとして応援していきたいですし、期待してます。
佐藤さん:
小学3年生から続けてきた僕のバスケットボール人生にとって、サンロッカーズはまさに“集大成”でした。子どもが好きっていうのもあって、今でも年に4回くらいは青学に観に行っています。昔からのファンの方と会う機会もありますし、これからもずっと応援していきたいと思います。