竹内譲次が語る、サンロッカーズでの原点と成長の記憶

竹内譲次選手
大阪府吹田市出身。洛南高校から東海大学を経て、サンロッカーズに所属(2007-16シーズン)。現在は大阪エヴェッサ(2021-)でベテランとしてチームを支えている。
207cm・98kgの恵まれた体格を活かし、PF/Cとして国内外で存在感を発揮。世界選手権(現ワールドカップ)、アジア競技大会など数々の国際舞台で日本代表としてプレーし、オールジャパンでは過去3度のベスト5選出を誇る。
サンロッカーズの歴史を語る上で欠かせない存在のひとり、竹内譲次選手。大学卒業後、日立サンロッカーズに入団し、苦しい時期を支えながらも、新人賞の受賞や天皇杯優勝を経験。現在は大阪エヴェッサでベテランとして活躍する彼に、当時の思い出や仲間との関係、そしてクラブで得た学びについて語ってもらった。
当時(2007年頃)のサンロッカーズを選んだ理由は?
竹内選手:
3チームからお声がけいただいた中で、自分が最も成長できる環境を求めて、サンロッカーズを選びました。大学時代はチームが非常に強く、自分が活躍しなくても勝ててしまう状況が、逆に危機感につながっていました。「自分がやらなければ」というプレッシャーがある環境の方が、自分には合っていると感じていたんです。
また、日本代表で一緒だった五十嵐圭さんの「試合に出なければ意味がない」という言葉にも、背中を押されました

在籍時(2007-16シーズン)のサンロッカーズはどんなチームでしたか?
竹内選手:
当時(2007年頃)はプレーオフ圏外の下位チームで、決して恵まれた環境ではありませんでした。ただ、同期(酒井泰滋や岩隈隆士ら)とは仲良くやっていましたし、カール・トーマス選手には本当に良くしてもらって、バスケ面でもアドバイスしてくれたり、プライベートでも遊びに行くような関係で、兄のような存在でした。
菅(裕一)選手は年齢が離れていてもとても優しく、すぐに話しかけてくれて安心できました。トシさん(佐藤稔浩)は人見知りで、最初はあまり話す機会がなかったのですが、プレーを見て「こんなすごい選手がいるんだ」と驚かされました。
印象に残っている試合やエピソードを教えてください。
竹内選手:
1年目で新人賞を受賞した時は、外国人選手が1人欠けていた状況で、勝ち星に恵まれず、苦しい時期もありました。ですが、「自分が活躍すればチームは勝つことができる」という思いで前向きにプレーしていました。自分自身すごく成長できたと思います。兄(竹内公輔)と一緒に新人賞を受賞できたのは嬉しかった半面、兄は優勝チーム、自分はそうでなかったので「次は自分が優勝する」という思いで、来季を見据えていました。
オールジャパン(天皇杯)優勝時(2015年)はヘッドコーチが変わり、外国人選手も強力で、シーズン前の練習試合から「これはいける」という手応えがありました。自分自身も選手として良い時期でしたので、『満を持して』という感じではないですが、そういったものはあったかと思います。優勝して、みんなで喜びを共有できたのが何よりうれしかったです。
この時期は特にチームの雰囲気も良く、日本人も外国人もみんな仲が良かったので一緒にいることが楽しかったですね。今でも当時のメンバーと話したり、この時の話題が出てきます。

今のサンロッカーズはどのような印象ですか?
竹内選手:
自分のいた頃とはまったく別のチームという印象です。ただ、チームの中心であるベンドラメ選手とは本当に短い時間ですけど、一緒にプレーしたことがありますね。
少し裏話になりますが、ベンドラメ選手が大学生の時に、当時、東海大学の監督・陸川章監督から「相談にのってやってくれ」と連絡をもらったので、東海大学まで行ったんです。その時に僕自身、彼とプレーしたいという思いもあり、「うちでやろう」と誘って、最終的に彼は入団を決めてくれました。ただ、いざプロデビューとなる次の年に自分が退団してしまったので「誘っておいていなくなったじゃん」と今でも言われます(笑)。
最後に、 サンロッカーズで得られたことはありますか?
竹内選手:
ある日の練習中に元気がなかったことがあって、その時、外国人選手から、「お前はチームの中心選手。お前の表情ひとつで、チームの雰囲気が変わるから、もっとポジティブにいるべきだ」と言われたことがありました。その言葉をきっかけに、自分の態度や表情が周囲に与える影響を強く意識するようになりました。
今でも、自己中心的なプレーは絶対にしないと心に決め、常に『チームのために戦う』姿勢を大切にしています。
