サンロッカーズの礎を築いた二人

左:平林龍二さん
中央大学卒業後、1975年日立製作所に入社。当時日本リーグ2部の日立本社バスケットボール部(のちのライジングサン)でフォワード・センターとして活躍。個人タイトル・リバウンド賞を2度獲得。1979年にベスト5にも選ばれ、「チームの大黒柱」となる。
現役引退後はサンロッカーズが誕生した2000年時のクラブ副部長として、選手採用の基準策定、予算管理などを担い、クラブの礎を築いた。
右:新井知水さん
早稲田大学卒業後、1980年日立製作所に入社。当時日本リーグ2部の日立本社バスケットボール部(のちのライジングサン)で198センチの長身センターとして注目を集めた。
2004年頃からサンロッカーズのクラブ副部長として、柏木真介、竹内譲次などをリクルート。また五十嵐圭のプロ選手転向へ関わった。
「日立サンロッカーズ」の誕生と成長の裏には、クラブの礎を築いた二人の存在があった。
今回は、元日立本社バスケットボール部で活躍し、サンロッカーズの副部長※としてクラブの運営に携わった平林龍二さんと新井知水さんに、当時の思い出やクラブに対する想いを伺った。
※副部長とは、クラブの予算管理、選手・スタッフの採用、運営体制の整備など、クラブ運営における中核を担う役職
当時、日本リーグ2部に位置していた日立本社バスケットボール部。現役選手時代(1980年頃)を振り返っていかがでしたか?
平林さん:
入部したのはクラブが50周年を迎えた年でした。私は日立の営業として横浜市などの自治体を担当していました。大学時代はケガの影響でほとんどプレーができなかったのですが、先輩に誘っていただき入部することになりました。
社会人になっても好きなバスケットボールを続けられることが本当にありがたかったです。大学1年生のときにアキレス腱の同じ箇所を2度断裂し、その後はプレーするのが少し怖くなってしまって…。3年生頃に練習に参加できるようになり、4年生になってようやく試合に少し出られるようになったという状況でした。ですので、今振り返ると、「拾っていただいた」という感覚が強いですね。
仕事が中心の生活だったため、平日の練習にはなかなか参加できませんでした。土曜日の練習に参加して、夜はチームの仲間と飲みに行き、日曜日に試合をする──そんな日々を送っていました。
新井さん:
最初は日立に入る予定ではなかったのですが(笑)…当時の日立のバスケチームのOBには東京の大学出身が多くて、私も先輩に誘われたのがきっかけです。日立は「仕事を中心にやってその上でバスケをやってください」というスタンスで、日本リーグや関東実業団の中でもそれを実行していた他のチームが少なかったのでいいなと思いました。
普段は営業マンなので、平日の練習は時間的にも参加できない人もいたのですがその後の飲み会にはみんな参加していました。それでもしっかり試合には勝っていて、会社としてもそうした文化が根付いていたように思います。昭和最後の国体にはOBチームでチャレンジするなど仲も良かったですね。
日立のバスケチームはバスケットボールが純粋に好きなもの同士が集まっていたので、やっていくうちにどんどん強くなっていきました。会社はバスケットを強化したいというスタンスではなく、始めたら強くなって結果が伴っていったと思います。
サンロッカーズの由来はなんですか?
平林さん:
元々日立本社のチーム名は「ライジングサン」で「サン」=「太陽」と。「ロッカーズ」は「リングを激しく揺する」という意味で、当時ヘッドコーチのロバート・ピアスが思いついたそうです。いい名前ですよね!

その後お二人は2000年以降のサンロッカーズ誕生からクラブを「管理する」立場に。いわばサンロッカーズの土台を作ったお二人ですが、どのようにサンロッカーズは成長していったのでしょうか?
平林さん:
2000年にスーパーリーグができて、日立本社ライジングサンと日立大阪ヘリオスが統合されてから社員選手が契約選手に変わりプロ選手も出てきて、その頃からクラブが一つになって採用や予算なども強化していきましたね。
その中でも日立製作所 副社長(当時)の佐室有志(慶応大学/日立本社バスケットボール部OB)さんは、副社長という立場でありながら、最後までバスケを守ってくれた存在で、佐室さんがいなければ続いていなかったと思います。
2000年当時は、実質私がメインとなってクラブの管理をしているという感じでした。
1998年ごろ、IT不況の影響で会社の業績が苦しくなって企業スポーツを見直そうということになりました。バスケは東京と大阪両方辞めようと話も出たのですが、佐室さんが日立大阪ヘリオスの生みの親である一期生・田中(富三)さんに説明に行ったところ、その場で統合の話が出たみたいです。
日立大阪ヘリオスの選手だった三谷選手と菅選手(新人)は東京に異動してもらい、総監督を大阪で監督を務めていた加藤さんにお願いして2000年のスーパーリーグからスタートしていきました。
クラブの副部長として何とかしてクラブを残したいという思いでしたので、佐室さん、田中さん、会社総務部門など存続にかかわってくれた方々には今でも感謝しています。日立大阪の関係者の皆様には辛い思いをさせてしまいましたが、皆さんで総力を上げて助けていただき、クラブを存続できたのだと思っています。
その後(2004年以降)クラブの管理を新井さんが務めましたが、 平林さんから新井さんへはどういう形で引き継がれたのですか?
平林さん:
一緒に副部長をしたタイミングがあり、その時に選手の採用も担当していたので、採用基準なども引き継ぎをしてましたね。当時は社員選手として、日立で仕事をする前提での採用だったので、社員としての評価も踏まえて採用していました。
新井さん:
最初はチーム方針を明文化しようという話になったことを覚えています。より予算を増やすために事業的な視線が必要でしたね。
あとはチームが強くなるために必要な「良い環境・良い指導者・良い選手」の準備をしていきました。当時チームには12人の選手がいましたが、我々はあくまでも社員がやっているチーム。半分以上の選手を社員選手で構成することになっていました。私は3年間副部長をやって、そのうち2年間は小野(秀二)さんがヘッドコーチをやっていたんですけど、そのあたりから竹内(譲次)選手などが加入してきてどんどん強くなってきました。

2015年、天皇杯での初優勝を振り返っていかがですか?
平林さん:
OBとして優勝パーティーに参加して、以前から田中(富三)さんも優勝パーティーなら帝国ホテルだと仰っていたのでまさか実現するとは思っていなかったですね。
新井さん:
自分がかつて活動していたチームがこんなにも強く大きくなったのかという嬉しさもありました。素晴らしいスピーチもあったり盛り上がっていて楽しかったですね。
最後に、お二人にとってサンロッカーズはどのような存在ですか?
平林さん:
やっぱり思い入れがあるので、今でも青学の試合はほとんど行っていますね。有明コロシアムや長崎の開幕戦も見ました。今のサンロッカーズにしかできないプレーを極めて、トップを争うチームになってほしいですね。期待しています。
新井さん:
いろんなところでサンロッカーズファンと会ったり、なかなかチケットが取れないという話も聞くので人気があるんだなと感じます。僕らの時代は、同僚や家族を入れてお客さんが何十人とかだったので昔だと信じられないですね。(笑)
今のサンロッカーズにはもっと強くなってもらいたいし、一人一人の意識がもっと高まればチームとしてもより成長していくと思います。勝てばいい方向に進むと思うのでこれからも期待しています。